【書籍紹介】「疲労とつきあう」1996 飯島裕一 岩波新書

両腕の可動域を広げようと始めた肩甲骨外しですが、左腕を少し動かすだけで肩関節がずきずきと痛みます。 

挙手動作は可能ですが横に広げる動作をすればすぐに痛みが伴います。

右腕は少しも異常がないことが救いです。

とは言っても肩甲骨外しを当分の間封印します。

もしくは軽度に見直します。

そんな左肩関節負傷中の Inukai Blog の始まりです。

 

「疲労とつきあう」(1996) 飯島裕一 / 岩波新書

f:id:inuwanhime:20181212112331j:plain

▷疲労

疲労とはが発する「休息要求のサイン」ととらえることができる。疲労感の存在は、死にもつながりかねない過労から体や心を守る大切なシステムなのだ。

疲労は、急性疲労(亜急性疲労)、日周性疲労(その日その日の疲れ)、慢性(蓄積)疲労に分類できる。

誰も疲労そのものをなくすことはできない。疲労は休息により緩和されるか回復されるが、最悪の場合は蓄積される。 さらに疲労は当人の発せられる言葉表現や表情で認知でき、疲労度合も経験的に認識できる。 

▷経験的慢性疲労

ここで私が経験した慢性疲労を述べる。

それは高校1年まで遡るが確実に慢性疲労に陥っていた。

入学したてという環境の変化や真面目という性格的素因もあるが、慢性疲労を招いた確定的原因は「不眠」だと断言したい。

当時にこの名著を渡すことができればと後悔するが、話を進める。

当時学力も並大抵で部活に励むことなく自宅へと一目散だった。毎朝A.M.6:00に起床し、P.M.5:00に帰宅するマンネリ生活をしていた。この帰宅する時刻に極端な絶望を持っていた。つまり余裕が全くなく、「他に何もする時間がない」という思考に支配されていた。夕食をとり、風呂に入れば時刻はP.M.8:00を指す。宿題を済ませ、明日の準備を終えた時にはP.M.10:00になる。時間的余裕が全くなく、いつも明日に迫られていた。眠気も薄く、しかし布団を被りものの数十秒で朝を迎える。布団を被りめくるだけの動作で明日になる。確実にこれは「不眠」を起こしていた。

 

これが不整脈の一症状である「動悸」として表れる。

運動後、予期せぬ事態、階段を上がる直後など発生時間は種種様々。

 

▷知識欠如が招いた慢性疲労

「疲れるなあ」という感覚は持っていたかもしれない。

しかし、学生の本分は学ぶことで「学校に行かない選択肢」は自分の手札にはなかった。

休むなんて以ての外だという意識でいた。

性格的に本当に真面目だとすれば疲労があるなら休んで、病院に行くことが正しい選択肢で自己犠牲せずに済む。

しかし当時の私は「勉強」「学校」「早起き」に束縛され、真面目にそちらを優先していたにすぎなかった。

「疲労が慢性的に起きる可能性がある」という認識、知識があれば即刻対処の方向性を向いていたはず。

とりあえずは死ななくて良かったし、術後後遺症もなくて幸いだと感じる。 

▷対話の機会を持つ

人間は脳が動物界でもかなり発達しており、言語も世界でたくさんある。

インターネットが当たり前となった現代でバーバルコミュニケーションを親族間のみならず地域レベルで行われる時代が再来したのではないかと感じる。

依然としてネット空間でされる「やり取り」もあるがこれは本来のコミュニケーション・対話の形ではない。

これは私自身に向けての発言であるが、もっとたくさんの人と会話をする場に出向いて、目で耳で五感で刺激を受ける必要性を感じる。

あえて動き回って「疲れ」を感じながら「対処方法」や「回復方法」を学んで行くことも一つだと考える。

▷この本を手にするべき人は

なるべく若いうちから、この名著に目を通して疲労という目に見えない存在を文字で目で見えるものとして理解できるこの一冊を読んでほしい。

疲労は何者なのか、どう付き合えばいいのかなど疑問に対して解答が用意されていると考える。

「睡眠」を大切にしている読者さんは「疲労」からも学べるものがあり、さらに両者には密接に通ずる何かを発見できると考える。

▷書籍購入リンクへ

疲労とつきあう (岩波新書)

疲労とつきあう (岩波新書)